こんにちは源吉商店です。
先日12月15日付の「下野新聞」に源吉商店が掲載されました。取材時に自分が話した内容を端的によくまとめていただき、記者の方の洞察力の鋭さに感心しました。また、新聞に掲載されると反響も大きく、お問い合わせの電話や店舗への来客数が格段に変わりました。いやぁメディアのチカラというものをまざまざと感じた次第です。
ところでこの新聞に取材されたときの話しですが・・・・女性の記者の方で「モッタイナイ」という認識をずっと子供の頃からお持ちだったとのこと。源吉商店が行っている事にすんなりご共感いただけておりました。まだ若い方ですが「モッタイナイ」という認識をずっと持っているというのは特別な存在かなと思いきや「自分の親からの教育もあるだろうけど周りにもけっこういますよ」というではありませんか。自分よりもはるかに若い世代の方からにこうした声を聞くのはちょっと驚きでした。

下野新聞 12月15日
自分は昭和40年代生まれですが、子供の頃には「賞味期限」というルールさえなかったように思います。見た目やニオイで「そろそろヤバいかな」と親もしくは自己判断で目の前の食材を食べるか諦めるかの判断をしていたように思います。ツンとした酸っぱいニオイや、糸を引くような食材を日常の景色として見ていましたが、いま思い返すとそれはけっこうエグイものがあったかもしれません。そして、まだ食べれそうなものを捨てようとするものならば「モッタイナイじゃないか。世の中には食えない人もいるんだからきちんと食べなさい!!」と喧しいくらい言われ続けた末に「モッタイナイ」という概念がすっかり血肉化していったように思えます。
加えて、家でも学校でも「お米は一粒たりとも残さずたべること」がマストの条件で「当たり前」でした。たまに友達の家でご飯を戴く際に「無理なら残してもいいからね」と言われると「なんでだー---!!」と不思議な感情になったことを思い出します。それくらい自分の育った環境下では「食べれるものはキチンと最後まで食すること」がルールだったし、当時の社会的環境では多くの同世代がそう感じて育っていたようにも思えます。
時は流れて令和の時代。もはや無いものがナイくらいにモノは溢れ、当時に比べればはるかに「豊か」になったと思います。そんな時代において「モッタイナイ」を叫ぶ自分はいったいなんなのか?お前のやってることって必要なのか?と、たまに自問自答モードになることがあります。特に「モッタイナイよね」とペット業界内に声をかけて、その反応が「モッタイナイ」のはわかるんだけど「しょうがないんだよね」とフードロスをやむを得ない事とする答えが返ってくる時にモチベーションは駄々下がりです。前にも述べましたがさまざまな「オトナの理由」でフードロスは起こっています。それに対して自分がやってる余剰品のリ・セールは「反対勢力的」な色眼鏡で見られがちなのが、ちょっともどかしい限りです。違うんだけどなぁ・・・とつぶやくことをもう何万回しただろう。
っていうときに、若い新聞記者の方が当店に興味を示してくださったことは、とても嬉しい気持ちになったし、モチベーションもグッとあがりました。新聞記者って広くいろんな情報の中から読者にとって有益な情報や、社会において大切なことを伝える必要性を感じた場合に取材して記事にされているんだと思います。そうした第3者の客観的な視点で源吉商店が取り上げられたというのが素直に嬉しかったです。時代の変遷とともに変わる「はやりすたり」ではない別のところに「モッタイナイ」というマインドはあるんじゃないかなぁと感じてます。SDGSが提唱されて久しい昨今では、逆に見直されても良いワードかと思います。
というわけで、気持ちを新たに「モッタイナイ」の定着?向けてに頑張りまーす!!
コメント